「頑張れ」って言う奴

あたしは気軽に「頑張れ」と言える奴が嫌いだ。なんと冷たく無責任で軽率な台詞だろうかと思う。いや、部活とか体育祭とか、はたまた日常の軽いシーンで使われる分には問題ない。あたしが嫌なのは、悩んでいる人や病んでいる人に無責任に「頑張れ」と言う輩だ。

カウンセリングの常識でもあるが、体であれ心であれ、弱っている人にとっては現状維持がもう既に努力の賜物なのである。辛さを乗り越えて生活を営む。それだけで十分「頑張って」いる。その上笑え、声を張れ、はつらつとしろ、だなんて要求する権利は、本人の苦痛を知り得ない他人にはない。

「え?病気なんだ、大変だね。頑張ってね」
そんな口を叩ける奴に限って、自分が少し痛い目遭うと泣き喚く。実に身勝手だ。

同様に、人の相談に対して
「あ〜分かる〜」
と相槌を打つ輩も信用ならない。やたらと自分の体験に準えてアドバイスしたがるのがそういう奴の常だが、置かれてる条件も、育った環境も、痛みの感じ方まで、全て一緒でない限り「分かる」なんて言葉を軽はずみに使うべきではない。解決策は本人が掴むしかないのだし、時間の経過だけが唯一の薬になる場合もある。自分の体験など、参考程度にしかならないと思った方がいい。

『傾聴』とはいい言葉だと思う。聴くに徹し、余計な発言はしない。弱って苦しんでいる人に接する時は、常にかくありたい。あたし自身もできている訳ではないから、自分への戒めでもあるなぁ。この日記。

入院したり病院にある程度通ったことのある人なら経験があると思うが、その辺りをきちんと理解しているドクターやナースは「頑張って」とか「分かる」などという言葉は決して使わない。彼らは必ずこう言うのである。

「一緒に頑張りましょう」

自らも闘う者にしか、人は共感できないものだ。

NIPPON VISION 2.0




次もほっこり系。「NIPPON VISION 2.0」。こちらは無料。ご当地物産展アプリという感じで、都道府県別の特産品や伝統工芸品を閲覧する。そうただ眺めるだけ。
NIPPON VISIONのイベントへの招致が目的だし、会場ではガイダンスに使えるようだ。新しいアプリの提供方法ですね。

ICOON



ICOON」という謎いアプリをDL。お値段、115円。なんともゆるい感じ。旅行する人には有益なんでしょうが、飛行機嫌いでパスポートもないあたしの一体何の役に立つんだろうか。という訳で、特に何ができるという訳ではないが、なんか好き。

「専門性」

twitterでぼやいた内容の転載ですが…

最近複数の同僚が「起業」を口にする。それが皆「開発部」のエンジニア連中。で、起業って専門性に自信がある人の特権のように思えて、企画職の専門性の薄さに愕然とした。やっぱり無形より有形の財なんだろうか。モノを作れるってでかいよなぁ。
弊社では企画担当がディレクターをやるのが慣例。売上を試算するのもキャリアと交渉するのも企画職の仕事。その体制が「器用貧乏量産」って仕組みになってないだろうか。マルチプレイヤー求められ続けると、自ずと専門性から離れていく気がする。
うちの開発はアジャイルを取り入れて一定の成果をあげている。でも企画にそれに相当する新しい手法を取り込む余地もないし、ぶっちゃけそんな余裕がない。部門間格差って言っちゃうとアレだけど、時々「アンタたちはいいよな」と思うことが正直ある。
「自主学習」的学びを実行している人も開発には多いが企画には少ない。現場の子たちがビジネス本を読んでる姿すらほとんど見ない。カラーバスも知らなけりゃマインドマップも書かない。これも余裕のなさ故なんだろうか。
結局リソース不足みたいなオチ?いやいや、だけじゃないはず。

【専門性】とは、『特定の領域に関する高度な知識と経験のこと』だそうだ。確かにコーディングは知識や経験がないとできないし、デザインもスキルや才能がなきゃ金にはならない。企画に漂うなーんとなく誰にでもできそうな臭いを払拭するには何が必要なんだろう。難問だ。。。

深酒な夜についての愚痴


「凄腕エンジニア1人と4人のソコソコのエンジニアを使えるマネージャー。より生産性が高くて偉いのは後者でしょ?」

と、ある同僚に言われて一瞬納得しかけた自分を今は悔いている。

それはそいつのスタンスなのであって、あたしのそれとは程遠い。「使う」という単語にも「偉い」という形容にもひどく違和感があるし、管理者が生産してるという感じ方自体あたしにはないもの。自然、そう思える彼にはマネジメントの素養があるのかもしれないし、だったら出世することに腐心し続ければいい。あたしは表現者であるために仕事を手段として選んでいるだけの人間で、そんなことには関心はない。社会人として彼の方が上なら組織ピラミッド上はそれでもいいと思っている。事実、給料も肩書きもそうなっていくし、それが世の中の仕組みだということくらいは、まぁええ年なんやから理解している。

ただ、自分のそのスタンスを人に押し付けようとする姿勢とか、居丈高に人のスタンスを批判する態度は、マネージャーになろうとする人間としては明らかに失格。人の能力や素質の多様性を認めようともせずに、頭から否定する会社や上司に未来があるとは到底思えない。

でも彼も出会ったときからそうだった訳ではない。かつてはエンドユーザーやサービスを誰よりも熱心に考えていた人だった。彼の変化を成長と呼ぶことも、ある側面ではできる。逆にあたしは社会的な成長を拒む駄目社会人だと自認もしている。自分が思っているよりずっとたくさんの分岐点にぶつかっていて、その都度選択をし、同じベクトルを向いていると思っていても、少しずつ少しずつ別の道に向かって歩いているのかなぁ。人間って。

幸いあたしには考え方の根幹を共有できる同僚もいる。今はそのことを最高にラッキーだと思っている。誰が正しいという訳ではない。自分が正しいと思うことを正しいと思いながらできることは幸せなことだ。そう思わせてくれてお互いに高めあえる仲間がいることは、心底心強い。

前述の同僚は、自分のスタンスを肯定してくれる仲間を欲しているんだろう。でも大事なことを誤解している。

仲間は作るものではない。

ましてや論戦で屈服させた相手を仲間になどできない。

仲間意識や同士感は、日々の業務やささいな会話や態度を見聞きする中で自然発生的に生まれるものだと思う。ある日改めて腹を割って話せたときに「ああ、こいつとはこんなところが似てるから一緒に仕事してて気持ちいいんだなぁ」と感じる。そんなものだと思う。